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「動物化するポストモダン」とVtuber

書評と感想

東浩紀さんの「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」を読んで、本書の記載は古くなっておらず、その論旨は現在にも一部そのまま当てはまっているのではないかと思った。この点、近年オタクたちの間で流行しているVtuberの観点から検討してみたい。

そもそも、様々なVtuberたちは、(言い方としては古くなっている感が否めないものの)萌え要素のデータベースから要素を抽出して作られたものであるように思う。例えば、月ノ美兎というVtuberは、公式ホームページによれば「高校2年生。」「性格はツンデレだが根は真面目」「学級委員」「本人は頑張っているが少し空回り気味」「よく発言した後で言いすぎたかもと落ち込んだりする。」といった、萌え要素の組み合わせにより生じたキャラクターであるように思う。

このように、データベースに含まれる要素から生み出された数多のVtuberたちは、動画という1本1本の小さな物語を生み出している。しかしながら、その小さな物語は断片的であり、Vtuberそのものについて、何か大きな物語を提示するものではなく、瞬間的に消費されるものであると思う。例えば、Vtuberで人気のコンテンツはゲーム実況であるところ、それらの動画1本1本がVtuberについて、何か大きな物語を提示するわけではなく、むしろ物語性はノベルゲームやアニメ等に比べればもっと薄いだろう。

Vtuberの登場によってオタクたちが人間性を取り戻した、ということはなくオタクたちは動物化への道を突き進んでいるように思う。Vtuberの物語は、基本的に人間の欲求に従って消費されるものであると思う。個々の動画は、その場の楽しさなり、有名Vtuberとコラボしたときの感動等を求めるオタクたちの感情的な満足のために消費されていくように思う。そして、この欲求については、Vtuberそのものに大きな物語がない以上、絶えることなく無限に続いていくものであるように思う。

ただし、Vtuberは生放送等で双方向のコミュニケーションをとることができるという点で、それまでのゲームやアニメのキャラクターとは異なるだろう。また、スーパーチャットでVtuberに大金を投じるさまは、他者からの視線、嫉妬を意識しているという点で、「他者の欲望を欲望する」という構造があるようにも思われる。また、Vtuberに関して、Twitter等の様々なコミュニティにおいて、社交的な活動が行われているようにも思われる。

しかし、本書の論旨を踏まえれば、これらのコミュニケーションというのは「降りる」自由が前提となっている。YouTubeやTwitterのアカウントをひとたび消してしまえば、すべてのつながりは雲消霧散する。そのような意味で、社交性の実質を放棄したコミュニケーションであり、これをもってオタクが動物化への道を引き返したと言えるわけではない。

むしろ、上記のようなデータベース消費の加速具合を見るに、近年動物化が一層進行しているととらえることも可能であるように思った。