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映画「ドライブ・マイ・カー」感想

作品情報

監督:濱口 竜介さん

なお、本作には村上春樹さんの原作が存在します。ただし、原作の短編からは大幅に話が変わっています。

評価

☆☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)

※以下は作品のネタバレを含むので、注意してください。

ネタバレ感想

はじめに

本作は、とても面白かったです。作中のイ・ユナさんばりの身振り手振りで伝えたくなるくらい、心に深いところにどっしりと根を張るような、そんな作品でした。

俳優陣の演技

ストーリーの素晴らしさは後で語るとして、まずは俳優陣の演技。特に、本作を主張した100人中90人近くは褒め称えたであろう、高槻役の岡田将生さんの演技が素晴らしかったです。軽率で、浅はかで、けれども悩める若手俳優を非常に説得力のある形で演じていました。音に関する「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。」というシーンが、まさに魔法のような一瞬であったことはもちろん、一人の人間としての生き方がはっきりしていたように思います。特に、物語の途中で人を殺してしまって退場するシーン。高槻の傷害致死事件について取材された小学校の同級生だったなら、真顔で「あいつはきっと何かしでかすと思っていました。」と答えるような演技は、白眉でした。

また、それ以外の登場人物の、基本的に感情を排したような、それでいて温かみのある演技も印象的でしたね。西島さんの演技もすごく好きでした。他の人(特に音)に対して感情をむき出しにしてこなかった家福が、渡利の実家の周りの銀世界で感情のままに喋り出すシーン。本作で積み重ねられたものが、一気に溢れ出したかのような一瞬は、上記の岡田さんのシーンに勝るとも劣らない名シーンだったように思います。あとは何と言ってもラストシーンの三浦透子さんの表情。今でも脳裏に浮かびます。

演出について

また、細かい点まで行き届いた演出も凄かったです。例えば、家福と渡利が、車内でタバコを吸う際に、手を真上にあげてタバコが車外に出るようにして持つシーンが非常に印象的だなと思って見ていました。そして、渡利が雪に埋もれた実家の前に突き刺すシーンで気づいたのです。タバコは死者を弔うための線香(又は蝋燭)のメタファーだったのだと。あのシーンは、家福と渡利がそれぞれ人を殺したことを独白したシーンでした。家福は、お父さんという立場ではなく、同じ「殺人犯」として、渡利とともに線香を空に向かって突き立てていたのだと気づき、目が覚める思いがしました。

また、家福が音のことをしっかり見てあげられていないということは、緑内障という比喩で本作に現れており、家福はしょっちゅう目薬をさしていました。しかし、高槻の「本当に他人を見たいと望むなら〜」以降のシーンでは、目薬を指す描写はなくなった=音のことをしっかり見てあげられるようになったのかなと思いながら見ていました。

ストーリーについて

本作のストーリーは、本編と、ワーニャ伯父さんの話、空き巣に入る女子高生の話が絡みあった重厚なストーリーでしたね。車内で流れる音のワーニャ伯父さんのカセットテープと家福の応対の内容が現実にリンクしていたり、人を殺してしまった女子高生と不倫をしてしまった音がリンクしているところなど、様々な対応関係があったように思います。

その中でも、今回は「カー」の比喩を通してストーリーについて考えて見たいと思います。

僕は、今回登場した車(サーブ900)によるドライブは、家福の人生の比喩となっていたのではないかと思います。サーブ900に乗っていた人物は、家福と近しい登場人物であり、ドライバーを握る人は家福の人生の主導権を握っており、ドライブによって家福の人生が進んでいったように思います。

例えば、最初の方では、家福が車のハンドルを握って音を送ったりします。これは、家福が音とともに人生を歩み、主導権を握っていたということなのではないかと思います。しかし、順調なドライブも束の間、音の不倫を見た家福は、事故を起こしてしまいます。その後、音がドライバーとなって人生の主導権を握られているようなシーンがあったり、音が死んで一人車に乗るシーンがあったり、渡利にドライバーになってもらって色々なところに連れて行ってもらったりというのも全て、人生を表しているように思います。そして、一時的に車に同乗する人がいても、高槻のようにどこかにいなくなってしまったりします。

そして、家福は車内で高槻や渡利と話しながら共にドライブする(人生を歩む)ことで、音との過去から決別できたのではないかと思います。当初、家福は死んだ音の声が録音されたカセットテープを繰り返し一人で聞いていました。まるで、死者と交信するかのように。しかし、ドライブ中に車内で話を交わすことで、気づきを得て、目を逸らしていた音に対し、ようやく真っ直ぐに目を向けることができたように思います。自分自身を見つめ直し、他者との対話に含まれるテクストを真摯に読み込み、作中劇のように本来分からないはずの相手のことを理解しようとすべきだったと気づいたのです。そして、音の声の入ったカセットテープから、自らを解放できたのではないかと思います。それは、家福がワーニャ伯父さんを演じられることができたことにも現れていますよね。

そして、最後に渡利が韓国でサーブ900を運転するシーン。これは、渡利は、韓国語でも人とコミュニケーションを取ることができるようになり、渡利が一人(と本当に好きなのであろう犬一匹)の人生を笑顔で進んでいけるようになったことを表しているようでよかったですね。

本作は、非常に印象的な作品でした。他の作品では絶対に代替することのできない何かが、本作の隅々にまでこめられているのだと感じています。