本やらなんやらの感想置き場

ネタバレ感想やらなんやらを気ままに書いています。

矢島文夫「ギルガメシュ叙事詩」感想:人間らしさを生む、暖かい空白

作品情報

作者:矢島文夫

ギルガメシュ叙事詩自体は、古代メソポタミアの文学作品です。

評価

☆☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)
※以下は作品のネタバレを含むので、注意してください。

ネタバレ感想

彼の体の三分の二は神、〔彼の体の三分の一は人間〕

ギルガメシュの体の三分の二は神である。人の部分は三分の一しかない。それにも関わらず、読み進めるに当たって、ギルガメシュがどんどんと人間になっていくかのような気がしてならなかった。

初期のギルガメシュは、いわゆる悪役、邪智暴虐の王。そんな彼が、エンキドゥと出会うことにより、どんどんと人間らしくなっていく。

例えば叙事詩の冒頭、ギルガメシュはエンキドゥに対してこう言う。

「太陽のもとに永遠に〔生きるは〕神々のみ
人間というものは、その(生きる)日数に限りがある
彼らのなすことは、すべて風にすぎない」(本書58頁)

まさに、神の血が流れているからこそとも思われる豪胆さ。人間は死すものであり、本質的にその為すことは風のように無意味なことに過ぎない。風が吹けば砂が動くなり、多少の影響はあるものの所詮それで終わりである。ギルガメシュは諸行無常をありのままに受け入れている。人間としては淡白過ぎ、彼はむしろ神の視点から話しているようにも思える。

そんな彼が、エンキドゥの死をきっかけに、完全に変わってしまう。野原を彷徨い、ギルガメシュは考える。

「私が死ぬのも、エンキドゥのごとくではあるまいか
悲しみが私のうちに入りこんだ
死を恐れ、私は野原をさまよう 」 (本書102頁)

この彼の変容が、私をとても切なくさせる。この彼の変わりように、私は彼にとってのエンキドゥの大きさを感じる。人が死ぬということそれ自体は、当たり前であるということを彼は知識として知っていたし、どうでも良い他人の死がいくら積み重なろうとも、英雄たる彼は気にも止めなかっただろう。それが、エンキドゥをきっかけとして、途端に、彼は死を恐れるようになる。ただ一人、彼は野原をさまよう。エンキドゥが死んだ悲しみが、彼を全て変えてしまった。

この親しき者が死んだ時の移ろいよう、変わりように、ギルガメシュの人間臭さが感じられる。死を恐れ、遠くの果てまで不死を求める彼の姿に共感せざるをえない。神のような存在のギルガメシュは、物語を通して、どんどんと人間と化していく。

また、この物語の終わりときたら!生命の草を手に入れたギルガメシュは、草を蛇に奪われ、結局単なる人間として生きていかざるを得ないのである。どこまでも人間として生きていかなければならなかったギルガメシュに、mortalな存在としての自分を重ね合わせずにはいられないし、共感が生じる。

加えて、ギルガメシュ叙事詩の一部が失われたままであるという事実そのものが、ギルガメシュをより人間らしくしているように思えて仕方がない。現代に生きる我々は、おそらくギルガメシュ叙事詩の粘土板の全てを知ることはできないだろう。ギルガメシュとエンキドゥとの物語については、粘土板が時が経つにつれ風化してしまったことにより、避けがたい空白が存在する。例えば、ロミオとジュリエットの物語は、今後何千年も継承されていくだろう。古典として、二人の物語は何世代にも共有されて二人はある種の不死性を獲得する。これに対して、ギルガメシュ叙事詩はどうか。現実に生きる我々の物語が時間が経つにつれて歴史の中に不可逆に埋もれてしまうように、ギルガメシュとエンキドゥの物語の一部はもう、二度と復活することはないだろう。このように、ギルガメシュとエンキドゥの物語が完全ではなく欠けているからこそ、これらの二人をある種人間臭く感じさせるように思えてならない。

二度と復活することのない物語の一部。これらは、我々が決して知ることのできないギルガメシュとエンキドゥの二人だけの秘密の思い出になったとも言える。そして、この欠落は、人間らしさを生む、暖かい空白として残り続けるのではないかと思った。