評価
☆☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)
※以下は作品のネタバレを含むので、注意してください。
ネタバレ感想
感想
本作は、「爆発オチだなんてサイコー」と言いたくなるような作品でした。
漫画であるにも関わらず、映画的な比率のコマ割り、ブレの表現。メタがてんこ盛りの充実したストーリー。読者の多くが感じたように、まさに映画の一本を見た後かのような読後感がありました。藤本タツキさんの漫画は、これまでファイヤパンチ、チェンソーマン、ルックバックと読んできましたが、本作が一番映画的でかつ心に残る作品であったように思います。
本作は、どこまでもメタの梯子を登っていくかのような作品でしたね。純粋な画力に引き込まれてページを進めると、母の死に関する最初の部分は作中作であったことが明かされます。そして絵梨と出会い、映画を作り始める主人公の優太ですが、その絵梨との過ごした日々すらも、途中で作中作であったことが明かされます。そして、本作の最後の爆発オチで、(廃墟が実際に爆発したとは考えにくいので、)本作の最初から最後までが1つの映画(フィクション)であったことが分かります(これは1ページ目のスマホを持つ手で本作が映画であることが暗示されていることと整合的です。)。
果たして、どこまでが優太の作り出したフィクションで、どこまでがノンフィクションだったのか?絵梨は本当に吸血鬼だったのか?主人公は本当に結婚し、家族を交通事故で亡くしたのか?多様な解釈を可能にさせつつも、なぜか分からないけれど心が苦しくなり、切なくなる。そんな不思議な魅力を持った作品でした。
考察ーどこまでがフィクションだったのか?
本作はメタ的な構造と相まって、一人一人のそれぞれの理解・感想が、それぞれ正しいという多面的な作品となっているように思います。ですが、せっかくなので、本作のどこまでがフィクションでどこまでがノンフィクションだったのかという点について、僕なりの解釈と感想を書いてみようと思います。
まず、最初のお母さんとの映像。これは、優太の作り出した映画です(ここは異存がないところかと思います。)。優太は、父が語るように「ファンタジーをひとつまみ」入れる少年だったことから、母の映画のラストシーンは爆発で締めくくられます。その編集で付け加えられた爆発シーンについて、優太は「……最高だったでしょ?」と語ります。当初、この爆発シーンを見た時は、「糞映画」と語った作中の同級生と全く同じ感想を抱きました。しかしながら、後で優太が母親から虐待されていたことを知って読み返してみると、このシーンから真逆の印象を受けるようになりました。それは、優太を道具として取り扱う母がいる病院が爆発されて「スカッとした」からでもありますし、母の死による悲しみに囚われていた幼い主人公が、爆発によって解き放たれ「最高だった」と言えるところまで復活したような気がして、爽やかな気分になったからでもあります。
そこから、主人公は絵梨と出会い、絵梨の死についての映画が始まります。しかしこれも作中作かつフィクションでした。絵梨の死後、絵梨の友人との会話で、絵梨は本来メガネと矯正をつけており、作中での絵梨の姿がフィクションであったことが明らかになります。また、絵梨は自己中心的で、母親の性格と同様に絵梨の性格についても優太の映像の中では美化されていたことが明らかになります。美しい二人の関係を描いた作品かと思っていたら、そもそも絵梨と優太は付き合ってすらいなかったというどんでん返し。このどんでん返しはいらないのになーと思いながら読み進めました。
解釈が分かれると考えられるのは、真っ黒なコマが4頁にわたって続いた後のシーンです。「それは映画の中にいる僕のことで〜」以降が、どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションだったのかについて、解釈が分かれるところかと思います。
ここで考えられる1つ目の解釈は以下の通りです。すなわち、「漫画通り、主人公は本当に引きこもって編集を続け、大学を中退し結婚するも自分以外の家族が交通事故で亡くなったことを聞かされた。悲しみのあまり気が触れた主人公は、廃墟に行って自死しようとするも、絵梨の妄想を目にして自死することをやめ、廃墟から立ち去ると現実世界で爆発が起きた。」この解釈ですと、廃墟を訪れた以降のシーンが全て主人公の妄想の中の出来事だったことになりますが、なぜ引き続き映画のようなコマ割りになっている(主人公が撮影しているかのような演出がなされている)かがうまく説明つかないように思います。また、本編の一部は映画でなかったことになり、最後の爆発オチとの関係で整理がつきません。現実で爆発したということはありえない以上、妄想の中で爆発したということになりますが意味がわからず、単なる不条理な爆発オチという整理になってしまうように思います。「爆発オチなんてサイテー!!!!」という解釈です。
2つ目の解釈は、廃墟にいくところまで①と同じく考えますが、実際に廃墟にいたのは復活した吸血鬼の絵梨だったというものです(つまり廃墟のシーンはノンフィクション)。しかし、絵梨は本来メガネをかけなければならないほど目が悪いということを踏まえると、なぜ復活した絵梨がメガネをかけていなかったのかという点は、若干腑に落ちないような気がします。また、それまで超自然的なものは描かれず、ありえないこと(ファンタジー)=映画により作られたフィクションであるという本作の枠組みからすると、いまいちしっくりこない気がします。
現在の僕の解釈は、以下の通りです。すなわち、「奥さんや子供がいたという部分や家族が死んだという部分はフィクションである。本作の最後のシーンで登場するのは優太ではなく優太の父であり、優太の父は絵梨が死ぬ前に最後の廃墟での絵梨とのシーンを撮影したフィクションであった。そして、本作は、優太が編集で加えた爆発とともに幕を閉じる。」
このように考える理由は、主に、⑴成長した主人公の姿が父の姿とそっくりであり、かつ主人公の父はカメラの前で演技をするシーンがあるなど主人公に協力的であることからすれば、主人公の父が最後のシーンを演じていても矛盾しないこと、⑵真っ黒なコマが4頁にわたって続いた後のシーンの展開が急すぎ、今まで丹念に動画を撮り続けていたはずの優太が、妻や娘の動画を本作の中に盛り込まないことに違和感があること、⑶優太の持ち味は「ファンタジーをひとつまみ」であるところ、最後の絵梨が生き返ったことと爆発オチが本作における「ファンタジーをひとつまみ」に該当するのではないかと考えられること(爆発オチのみがファンタジーをひとつまみだとすると単なる二番煎じであり、優太が絵梨のための作品で単なる二番煎じはしないと考えられること)にあります。
このように考えると、「映画の中でなら生き続けられる気がして」という絵梨の願いを叶えるための作品であると考えられる本作において、主人公が綺麗に絵梨との過去を切り取ることで、実際には死んだはずの絵梨が本作(映画)の中ではずっと生き続けることとなり、見事に絵梨の願いが叶ったことになります。本作のタイトルは「さよなら絵梨」というものであるところ、このようなタイトルがついた絵梨との別れのための作品によって、彼女の最後の思いを叶えるというのは非常にロマンチックで素敵な作品になるように思います。そのため、このように解釈するのが好きです(僕個人の好みです。)。
ただし、本作全体が映画であるというところは揺らがないと考えられる以上、このような解釈のみならず、基本的にはどんな解釈も可能であるように思います。そのため、本作について最終的にどのような解釈を取るかという点は、もはや読者個々人の好みによるところも大きいように思われ、本作がある種の鏡のように機能しているようで面白いですね。
閑話休題。このように多面的に解釈できる(そして感情が強く揺さぶられる)ところも良かったですが、最後の爆発オチは最高でしたね。母と絵梨は自己中心的で高圧的な存在であり、両者について水族館のシーンやパフェのシーンがあるなど共通点が多く見られ、両者はパラレルに考えられるように思います。そして、優太が、死してなお続く母の死の悲しみや母からの呪縛を自らの映画の中で爆発オチを挿入することで振り切ったように、絵梨の死による悲しみや絵梨の呪縛から、自らの映画の中で爆発オチを挿入することで振り切った(優太が立ち直った)ことが、本作の最後で示唆されているような気がして、非常に良い終わり方でした。まさに本作はサイコーな爆発オチの作品でした。
ドッカーン。