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カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」感想:不気味な静謐さが漂う作品

評価

☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)

※以下は作品のネタバレを含むので、注意してください。

ネタバレ感想

 本作は、物語を読んでいて常に不気味さが感じられる作品でした。また、奇妙な平穏さを感じる作品でもありました。この両者が、本作に底知れぬ暗い魅力をもたらしています。

本作の不気味さ

 本作では、最初からいくつもの謎が散りばめられており、不気味でした。「『動揺』に分類される提供者」、「提供者を『平静』に保てた」、「顔見知りの提供者は少なくなる一方」(9-11頁)。「ルースの初めての提供」、「最悪の時期」、「回復室」(29頁)。「提供者」という存在が何を指しているかは分からず、物語の当初から仄暗い闇に放り込まれた気分でした。

 平穏なはずの過去の日常を語るキャシー。そして、その途中で突如明らかになる真実。「いずれ臓器提供が始まります。あなた方はそのために作られた存在で、提供が使命です。」(127頁)。物語の途中、キャシーから強調されることもなく、謎があまりに自然に明らかにされたために、完全に虚を衝かれました。そして、それが意味するものを理解した時に、背筋が寒くなりました。はなから主人公たちに幸福な将来など約束されていなかったのだと、不気味さが現実的な恐ろしさへと変わりました。

 また、本作の不気味さは、キャシーの語り口にもありました。残酷な真実を語っているにも関わらず、その口調は穏やかです。友人たちや最愛の人の死を語る時でさえも、奇妙な程に落ち着いています。「私はルースを失い、トミーを失いました。でも、二人の記憶を失うことは絶対にありません。」胸の中の感情、特に悲しみを投げつける訳でもなく、淡々と気持ちを述べています。これは、村上龍の限りなく透明に近いブルーの主人公を思い出させるような、客観的で奇妙な筆致です。それがまた、不気味なのです。まるで、機械の合成音声を聞いているかのような、得体の知れなさを感じられます。

不思議に思ったこと

 そんなキャシーの語る物語を聞いていて、不思議に思ったことがありました。なぜ、主人公たちは全てをあるがままに受け入れ、提供者として死を受け入れるのだろうかと。キャシーとルースは、なんとか死を回避しようと努力しますが、あくまでそれは制度の枠内での努力にすぎません。愛している二人には猶予が与えられると聞いてマダムを探し出すものの、それが嘘だと分かった瞬間に全てを諦めます。ルールを破り、よそに逃げるといったことは、はなから選択肢に入っていないのです。

 これは非常に奇妙です。普通なら、なぜ自分たちは他の人間たちと扱いが違うのかと疑問にに思うでしょう。もっと足掻くでしょう。少なくとも逃げようとするでしょうし、それが無理でも何らかの抵抗したり、挙げ句の果てには抗議の一環として自死を選んだりするかも知れません。しかし、提供者たちはそんなことを考えもしないのです。

 その謎を解明する手がかりは、本書の中にありました。ヘールシャムの教育について、以下のような一節があります。

何か新しいことを教えるときは、ほんとに理解できるようになる少し前に教えるんだよ。だから、当然、理解はできないんだけど、できないなりに少しは頭に残るだろ?その連続でさ、きっと、おれたちの頭には、自分でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ。(129頁)

 小さい頃に、提供者となる運命を頭の中に刷り込まれていた。だからこそ、抵抗することを考えもしない。本作の不気味な静謐さの根本的な原因が、科学の名の下に主人公たちを殺していくこのシステムにあるように思えてなりませんでした。そして、人間は皆平等であり、すべての人は個人として尊重されるという考え方が、所与のものではなくてある種の約束に過ぎないのではないかと、本作のシステムは疑問を投げかけているのではないかと思い、恐ろしくなりました。

 私を離さないで。「心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱きしめて、離さないで、離さないでと懇願している。」(415-416頁)現代の我々の科学のもたらす世界が、いつか不気味な静謐さをもたらして、過去の世界を消し去ってしまわないことを願わずにはいられない作品でした。

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