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カズオ・イシグロ「日の名残り」感想:夕陽の様に温かな作品。

作品情報

評価

☆☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)

※以下は作品のネタバレを含むので、注意してください。

ネタバレ感想

 本作は、主人公の飽くなき過去への憧憬が、どこまでも悲しくなる作品だった。

 主人公のスティーブンスは、執事として滅私奉公を是とする人間で、人生のほぼ全てが仕事に費やされていた。死の床に瀕した父や恋心の様な淡い気持ちを抱いていたタントンさえも、仕事の妨げにしかならない。

 本作を読んで何よりも悲しいと思ったのが、スティーブンスが久方ぶりに屋敷を出て旅行に行っても、旅行記で描かれるのは過去のダーリントンホールの話ばかりであることだ。見慣れない風景、新たな人との出会い。それらは脇役に過ぎず、かつての追想ばかりが繰り返し語られる。このことから、スティーブンスの人生には仕事以外ほとんど何もなかったことが分かるし、彼の肉体だけでなく感性までもが老いて来ていることが伝わってくる。

 私生活を全て捨て、プロフェッショナルとして主人に盲従する。それもまた、一つの美しい生き方なのだろう。人を殺傷する道具としての機能を突き詰めた日本刀に美が備わる様に、主人公の執事としての生き様にも道具としての美しさが感じられる。

 見目麗しい日本刀であってもその使用方法によっては忌むべき存在となってしまう様に、道具に対する評価は使い手や使い方に対する評価に依存する面がある。主人たるダーリントンナチスに入れ込んでしまったことが、屋敷の銀食器の様に磨き上げられたスティーブンソンの人生にも曇りを加えてしまったことは間違い無いだろう。また、老いにより十分に働くことができなくなったことも、彼を弱気にさせたことだろう。仕事は、旅する彼の救いとはなっていない。

 そんな中、本作の旅を通じて、スティーブンスは過去の思い返しながら次第にタントンへの想いを強めていった様に思う。彼女が夫とうまくいっていないことを手紙から読み込んだ彼は、その内容を反芻しながら、彼女のとの再会と関係の復活に、ある種の救済を求めていたと感じられた。

 仮に、本作で最終的にスティーブンスとタントンが一緒になったという話であれば、お互いに好意を抱いていた二人が数十年間の紆余曲折がありながらも最後には結ばれたという、西日のように穏やかに輝くラブストーリーとなっただろう。しかし、現実は残酷で。彼女は彼女ですでに安寧とした幸せを手に入れており、スティーブンスには過去の後悔を挽回するチャンスはなかった。彼にできたのは、ただバス停の彼女を見送ることだけ。本来ならば有ってしかるべき、彼女と会った翌日である5日目の記載が本作から欠けていることが、スティーブンのタントンへの断ち切れない思いを何よりも表しており、切なかった。

 そんなスティーブンスを最後の最後に救った言葉が、本書で一番秀逸な部分だった。海辺で出会った男は言う。

人生、楽しまなくちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が1日でいちばんいい時間だって言うよ(350-351頁)

 過ぎ去りし思い出は、どうやっても変えることはできないものの、そのような記憶を積み重ねた人生はただそれだけで美しい。全てを無条件に肯定してくれる男の言葉は、本作を夕陽の様に温かな作品にしている。

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