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円城塔「これはペンです」─叔父は叔父でない。文字通り。

作品情報

これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

 

 本書は、円城塔さんの短編作品集である。「これはペンです」「良い夜を持っている」の二作品が収録されている。

評価

☆☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)

 

※以下は作品のネタバレを含むので、注意してください。

ネタバレ感想

文字である叔父について─叔父は叔父でない。文字通り。

 本書の謎の1つは、冒頭の一節である。

叔父は文字だ。文字通り。(本書9頁)

  文字通りと言っているからには、単なる比喩表現ではなく、実際に叔父が文字であることが分かる。では、叔父が文字であるとはどういうことか。普通の人間は、当然の如く文字ではない。

 1つの可能性は、「わたし」が叔父と会った記憶がなく(10頁)、叔父とコミュニケーションをとったことがある/とれるのは文字だけであるから、手紙上の文字こそが叔父の全て。そのため、叔父は文字であるというもの。例えば、こんな解説がある。

世界を旅する叔父とは会ったことがなく、実在するのはやりとりするメールや手紙のみ。つまり文字の集積が叔父である。

asahi.com(朝日新聞社):理屈と奇想と情が混然 円城塔の新作「これはペンです」 - 文化トピックス - 文化

 ただ、これは私好みの解釈ではない。叔父が単なる人間であることを前提とすれば、叔父を記すために普通の道具を用いれば良いのであって、わざわざ叔父を記すための道具を探さなくとも良いから。(9頁)

 では、叔父は文字であるというのはどういうことか。その問題を考える前提として、私が記したいと思っている叔父は現実に存在する叔父でないことを確認しておきたい。文字である叔父=私に手紙を送ってくる叔父=私が書きたいと思っている叔父=架空人格である叔父(以降は、「文字である叔父」と呼ぶ。)は、生身の人間である叔父(以降は、「文字でない叔父」と呼ぶ。)を含む複数人から構成されている(100-101頁)。数学者集団が作り上げた架空の数学者であるブルバキのように。*1 本書の言葉を使えば、「叔父という存在は、叔父を部分として含む何かの種類の非正規的な研究活動の名前」であるのだ。そう考えると、「文字である叔父」は、「文字でない叔父」と同一ではなく、叔父は叔父でない。

 そして、文字である叔父は、架空の人格であるがゆえに、何か実体を持っているわけではない。文字である叔父は、文字である叔父が書いた手紙や著作等の文字によって構成される存在であって、それ以上のものではない。文字である叔父は、単なる文字の集積に過ぎない。だからこそ、(文字である)叔父は、文字であるということになるのではないかと私は思う。

叔父を記すための道具について─これはペンです

  もう1つの謎が、「叔父を記すための道具」(9頁)とは何かである。物語の始まりで、叔父は文字だと断言した「わたし」は言う。

だからわたしは、叔父を記すための道具を探さなければならない。普通の道具を用いる限り、文字は叔父とならないから。(9頁)

 文字である叔父は、不特定の人間が書く文字の集積によって作り上げられる架空の存在であって、その存在は常に「変転」している(104頁)。そのため、普通の道具を用いる限り、文字で叔父を説明することはできず、文字は文字である叔父とはならない。だからこそ、叔父を記すことができる特別な道具=ペンを、「わたし」は探しているのだと思う。

 では、文字である叔父を記すことができる道具とはいったい何なのだろうか。それを考える手がかりとなるのが、「わたし」が叔父を記すための道具の候補を見つけたように思えることである。本書の27頁で、私は「わたしはこうして叔父を記そうとする」と書く。そもそも、文字である叔父を記すための道具の候補を見つけていないのであれば、いくら文字を書いたところで無駄である。ということは、文字である叔父について書いている時点で、文字である叔父を記すための道具の候補を見つけ、それを使って「わたし」は文字である叔父について書いているのだと私は考える。

 では、私が使っている道具とはなんなのだろうか。本小説を読む限り、「わたし」は何か特別な道具を使って、文字である叔父を書いているようには思えない。物語という道具を使っていることを除けば、だが。

 私は、文字である叔父を記すための道具とは、本編そのものであると考える。変転する存在である叔父の本質を伝えるのであれば、その変転自体を物語として描き出すのが最良であろう。

 だからこそ、本編のタイトルが、「これはペンです」であるのではないだろうか。本編自体が、文字である叔父を記すためのペンであることを、このタイトルは示唆しているように私は感じた。

「物質の流れが輪を描くこと」について

 本書は、書くことについて扱うと同時に、言葉そのものについても扱っている。本書の中でも、一番印象に残った箇所は、本書の中で唯一タイトルを含む箇所だった。

それでも多分重要なのは、物質の流れが輪を描くこと。描かれた輪が整合性の名の下に、わたしの思考を紡ぎ出すと信じることができるように、この世は何故かできている。くるくる回る因果の輪が、そうして回ることにより、自分は回っているのだというメッセージを刻む。これはペンですとしか書けないペンみたいに。(53頁)

 これはどういうことなのだろうか。まず、この部分より前の部分を振り返ってみよう。脳は個人ごとに異なっていて、脳を連結してもお互いに理解できないことが語られる。(50頁)しかしながら、言語を使って─その言語も個人ごとに誂えられているのだが─他人と意思を疎通できる。あるいは、意思を疎通できるように思えてしまう。(52頁)そして、その思考は人間の体がどうなっているかにも影響される。(52頁)

 それを踏まえても、先ほどの部分の意味はよく分からないのだが、もしかするとこういう意味なのかもしれない。言葉により表現し、相手がその言葉を聞いて行動する。そして、相手の行動や発言を見て、言葉の意味を再確認する。これはペンですとしか書けないペンを使って、これはペンなのだと納得するように。そして、そのような言葉が、整合的に自己の思考を紡ぎ出すと人間は信じるようにできている。

 このように言葉を連ねたところで、前段落について私が書いた内容を、あなたが私が思う通りに解釈することは不可能なのだろう。もっと言えば、この記事を含めた、私の文章の全てについて、あなたが私と同じように理解することは、原理的に不可能なのだ。

 最後に、本編で一番心に残った46頁の一節を引用して、本稿を終わりとしたい。

 ここには一つゲーム盤があり、お互いにどんなゲームをするか知らない二人が向かい合っている。あるいは、相手が行うゲームのルールを自分の方では知っていると考えている。駒の動きは物質のルールに縛られており、共通している。共有されるものが物質だから。にもかかわらず、駒の動きから相手がどんなゲームをしているのか知る術はない。そんなゲームだ。

 わたしたちは、そんな盤上で向き合っている。

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*1:本書でも、102頁でブルバキの名が言及されている。