本やらなんやらの感想置き場

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人間はAIよりも人間が好き?

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 昨今は、猫も杓子もAI・AI。実際のところAIでどこまでできるかは分からないにも関わらず、AIは万能だという空気が形成されている。こんな、なんでもできそうなAIにだって、少なくとも1つ弱点が存在する。それは、人間はAIよりも人間の方が好きであろうということだ。

 一例を挙げよう。将棋や囲碁の世界で、AIが人間相手に劇的な勝利を納めたことは、記憶に新しいだろう。その当時は、大きなニュースになったし、これから人間がAIに勝つことは不可能だということがある種の常識となった*1。しかしながら、それ以後に、あなたはどれだけ囲碁や将棋のAIについてニュースを見聞きしただろうか。おそらくほとんどないことだと思う。

 これは、藤井聡太七段や井山裕太6冠などの棋士の活躍で、棋界が盛り上がっているのとは対照的で、非常に不思議である。なぜなら、囲碁や将棋のAIについて、ニュースがない訳ではないのだ。例えば、囲碁については2017年に世界電脳囲碁オープン戦が開催されたし*2、将棋については2018年にも世界コンピュータ将棋選手権というものが開催されている*3。純粋な強さで言えば、人間よりもAIの方が強いのであるから、地球上で最も強いもの同士の戦いという点で、もっとニュースになっても良さそうなものである。しかし、人は人間の戦いに注目するし、AI同士の戦いに興味がある人は多くはない。

 結局のところ、人間は人間が好きなのだ。戦いそのものはもちろんのこと、戦っている人間自身のことにも人間は興味がある。その人の生い立ちであったり、その戦いに到るまでのドラマであったり。結局、人間はAIよりも共感しやすい人間の方が好きになりやすいのだ。人間とAIが対決した電王戦であっても、AIではなくAIの製作者にスポットライトが当たることがあったのも、これを裏付けている様に思える。

 なんだかんだで、人間はAIよりも人間が好き。これは、AIの抱える弱点の1つと言っても良いだろう。

 しかしながら、この弱点がいつまでも続くとは限らない。要するに、人間がAIに対して愛着を持てれば、人間は人間でなくAIの側を応援するなんてことが普通に行われる可能性がある。

 僕がそんなことを思ったのは、バーチャルYoutuber界隈の盛り上がりを知っているからである。バーチャルYoutuberについては説明するよりも、以下のバーチャルYoutuberの動画を見てもらった方が手っ取り早い。

 このキズナアイのようなバーチャルYoutuberは、3Dモデルで作られた架空の存在だ。でも、人は、バーチャルYoutuberの動画を見て、笑い、楽しみ、共感する。人間が、人間のYoutuberに対して共感するように。そして、実際のところ凡百な人間のYoutuberよりも、キズナアイの方がよっぽど人気なのである。

 果たしてそれが可能かどうかは分からないが、AI自体が(リソースのいくつかを目的外に浪費して)このような個性を演出できれば。その時、人間がAIではなく人間を応援する理由はなくなるのかもしれない。キズナアイのような個性を持った将棋AIが人間と対決しても、人間がAIの方を応援するような時代が来るのかもしれない。

 人間はAIではなく人間が好き。将来的には、そんな訳がないと言われる時代が到来するのかもしれない。

AI裁判官は生まれ得ないのではないか

はじめに

 AIはなんでもできると思う人がいる。NHKですらAIは「天使か悪魔か」と言う現状である*1。そんな中、AI裁判官が生まれるのではないかという言説を時たま見かける*2

 果たして、そんなAI裁判官は生まれうるのだろうか。本稿では、それについて少し考えてみたい。そこで考えてみるに、以下のとおり、少なくとも憲法上の問題、責任の問題、技術上の問題、「正しい」解釈・事実認定の基準を作れるかという問題、開発費用のもんだいが あるように思う。

憲法上の問題

 そもそも、日本国憲法上、AI裁判官は生まれ得ないではないかと思われる。例えば、日本国憲法79条第5項は、「最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する」と定めている。また、第80条但書は、下級裁判所の裁判官が「法律の定める年齢に達した時には退官する」と定めている。これらの条文は裁判官に年齢があることを前提として書かれている以上、裁判官は人間である必要があると解される。また、そもそも国民でないAIに司法を任せるのは、国民主権の観点からも問題があることからすれば、憲法上AIが裁判官になり得るという解釈は厳しいと考えられる。

 これらの点に加え、日本国憲法が戦後70年以上も経っているにも関わらず、一度も改正されていないことからすれば、AI裁判官を認めるような憲法改正がなされることは(少なくとも近い将来は)ないと考えられる。

 したがって、AI裁判官は生まれ得ないと私は考える。ただ、あくまでAIそれ自体が裁判官になることが許されないのであって、AIが裁判官をサポートすること自体は、おそらく許されるだろう。

責任の問題

 AIは人ではないから、現状AIが法的に責任を負うことはない。失敗した時に一切責任を取らない存在に裁判という極めて重要なものを委ねたいと思う人は、どれほどいるだろうか。 AIに裁判を委ねても良いと考える人が多数を占めない限り、AIが裁判官となる可能性はないだろう。

技術上の問題

バグ

 まず、根本的な問題として、AI裁判官はプログラムによって作られるわけであるから、そこには常にバグが生じる恐れがある。裁判官の判断は間違ってはならないものであるが、その判断が間違えないようにバグのないAI裁判官を開発する事は、至極骨の折れる作業であろう。

 一度自分でプログラムのコードを書いてみればわかるが、プログラミングはバグとの戦いであり、システムが複雑になればなるほどバグをなくすのは難しい。そのようなバグをなくす困難さは、色々なソフトウェアがバグをなくすために頻繁にアップデートを繰り返していることからもわかる。多様な判断をなさなければならないAI裁判官は、おそらく複雑なプログラムにより構成されるものであってバグをなくすのは困難だと考えられるところ、バグによって判断を間違え得るAIに裁判官を任せていいのかという問題がまずある。

 人間の裁判官だって間違えるのであるから、バグがあっても人間と同程度の判断ができるAI裁判官であれば良いという考え方もある。しかし、その考え方をとって、そのような判断を下せるまでバグを減らすことができると仮定しても、まだ問題は残っている。

法の解釈や事実認定

 裁判官の重要な仕事として、法の解釈や事実認定がある。そもそも、AIが「正しい」法の解釈や事実認定ができるのかが問題となる。

 法の解釈について言えば、AIが解釈ができるかが問題となる。AIに法の解釈をさせる方法として、人間が法の解釈をコード化することと、AIに自ら解釈を学習させる方法が考えられる。前者については非現実的である。法の条文は莫大な数があり、頻繁に改正されるものであるから、それらの解釈を、バグが生じないように一々人間がコード化するのは事実上不可能であろう。

 そのため、おそらく判例等を読み込んで学習することになるだろうが、新しい法などについては既存の文献に全く解釈が掲載されていないものが存在するだろう。それらについてAIが学習するのは難しい。そのような法について、AIにどうやれば解釈させられるのか、私には想像もつかない。例えば、「窃盗」という言葉を解釈するにしても、多種多様な解釈がなしうることは、言葉の意味が辞書によってまちまちであることからもわかる。そのような多数な解釈を許す言葉が集まって構成される条文について、どうやって解釈を考えさせれば良いというのか。

 また、既存の判例がある分野については、判例に沿った解釈しかできないことになるが、裁判官は判例に常に従っていれば良いという訳ではないだろう。時には、既存の判例から離れて新たな解釈を示す必要があることもある。

 さらに、事実認定についてはいちいちコード化するのは不可能だろう。よって、事実認定には機械学習を用いることになろうが、時には従来の判例が扱ってこなかった事件が生じることもある。既存の判例がない状況において、AIにどうやれば事実認定させられるかについても、私には想像がつかない。

「正しい」解釈・事実認定の基準を作れるかという問題

 また、解釈・事実認定できるAI裁判官を作ると言う事は、このように解釈・事実認定をすることがある種の「正解」であることを認めることになる。そもそも、解釈や事実認定について、そのような「正解」を作り出すことはできるのか。そもそも、日本の法曹界はそのような「正解」について合意できるかというと、難しいのではないかと考えられる。世の中には数多くの解釈すべき条文や事実認定がなされるべき状況があるから、その1つ1つについて法曹界でコンセンサスを取るのは非現実的だからだ。

 そして、そのような合意が得られないで作られたAI裁判官が、実務で受け入れられるかというと厳しいだろう。 

開発費用の問題

 また、そもそもAI裁判官を作る際の開発費用が問題となる。複雑なシステムであるAI裁判官を作るには、多額のコストがかかることが容易に想像できるが、そのような多額の予算をそもそも裁判所が用意できるのかという問題がある。IT化すら進んでいない裁判所*3が、AI裁判官の開発のためだけに多額の予算を確保することは難しいに違いない。

学習データの問題

 日本の裁判所のIT化は進んでおらず、判決文もほとんどデータ化されていない。判例秘書等の民間のデータベースは存在するものの、クローリング等により判例のダウンロードをすることは許されていないだろうから(それを許してしまえばデータベースの価値がなくなってしまう)、学習データを用意するのは困難である。

 ただ、この問題は民間のデータベース業者と提携すれば解決可能な問題ではある。

まとめ

 結局のところ、日本国憲法がある以上AI裁判官は生まれ得ないだろう。裁判官をサポートするAIのシステムは生まれ得るかもしれないが、それにしろ問題は山積みである。特に、裁判例がないような事件を取り扱えるAIを開発する事は困難であろうから、将来的にも、判例のある分野について裁判官をサポートするシステムができるのが関の山ではないかと考える。

関連記事: AIによる人格の「再生」は現代の降霊術と言えないか? - 本やらなんやらの感想置き場

機械による自動撮影と写真の未来─Google ClipsとParty-Shotに思うこと

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はじめに

 撮影者は、写真を撮るために、シャッターを押す。撮影者は、基本的に観測者にとどまり、写真の中に写ることはありません。アナログカメラでも、デジタルカメラでも、スマホでもそれは変わりません。猿ですら、写真をとるために自分でシャッターを押すくらいですしね。*1

 ですが、写真を「撮る」方法はどんどん増えて行っています。例えば、センサーを仕掛けて一定の条件で写真を撮るようにしたり、動画から1コマを抜き出して写真を切り出したり。ですが、前者であれ後者であれ、どの時点で写真(あるいは写真の元になる動画)を撮るかは撮影者が決めていました。

 しかしながら、それすらも段々と覆されています。

機械による自動撮影について

SonyのParty-ShotとSmart Imaging Standについて

 まず、SonyのParty-Shotは、2009年に初めて発売されたものです。Party-Shotは、顔を認識し、ズームやパンをしながら自動で構図を決め、シャッターを切ることができます。*2約10年前に、Sonyがそんな機能を持つカメラアクセサリーを開発していたなんてびっくりですよね。


新型パーティショット IPT-DS2 & DSC-HX9V

 また、ソニーXperiaを使って同様の機能を達成するSmart Imaging Standというものを発売しています。

 ただ、これらは構図探しの段階では、かなりランダムにカメラを動かして人の顔を探して決めているようです。また、顔認識といっても誰の顔を認識するかは決められません。

Google Clipsについて

 次は、Googleが新しく開発したGoogle Clipsです。このGoogle Cliipsは、ちょうど先月前にアメリカで販売が開始されました。なお、他国での発売について、Googleは明言していないみたいですね。*3

 Google Clipsは、こんな形をしています。

https://storage.googleapis.com/gweb-uniblog-publish-prod/images/Google_Lens-hero_A9xor54.max-2800x2800.jpg A new angle on your favorite moments with Google Clips

 このGoogle Clipsは、人工知能によって、カメラによく映り込む人(撮影者や家族等)の顔を認識します。それらの人を対象に、Google Clips自体がタイミングを決めて撮影し7秒間の短い動画(clip)を作成します。(音声は記録されません。)持ち主はスマートフォンでその動画を取得することができ、また、その中の一場面を写真として切り出すこともできます。ただし、レンズ自体は単焦点なので、ズームをすることはありません。

 Google Clipsの詳細な説明は、以下のリンクか動画を参照してください。
速報:新発想カメラGoogle Clips発表。家族やペットを認識、自動で決定的瞬間を残すAIカメラマン - Engadget 日本版


Google Clips | A new way to capture and save moments

 ここで強調したいのが、動画から切り出す写真を決めるのは人間とはいえ、動画自体の撮影のタイミングは機械が決めるのであり、それは今までの撮影法と異なっているという点です。そして、自動撮影であるがゆえに、撮影者自身が、非常に簡単に写真に写ることができるのです。

 これらの機器は、撮影者が撮影のタイミング(と構図)を決めるという写真の原則を変える、非常に革新的なものであると言えるでしょう。

Prosthetic Photographerについて

※2018年3月6日追記

 この記事を当初書いた時に想像していたようなデバイスが登場しました。様々な写真を学習したニューラルネットワークが、良い構図となったときに人間にシャッターを押させるというもの。詳細は、以下の記事からご覧になれます。

www.gizmodo.jp

 技術の進歩って早いですね。電気ショックを流して人間にシャッターを押させると言うのが、研究段階ということもあって荒いですが、まさに写真の未来に一歩近づいているような気がしますね。

写真の未来について

 まず、機器の性能的な面で言えば、どんどん性能は高まっていくと考えられます。Party-Shotという前例がある以上、Googleもやろうと思えば、Google Clipsにも構図を決める機能を持たせることはできるでしょう。(物理的に構図を決めるのか、デジタルズームで構図をきめるのかは分かりませんが。)

 また、顔の認識能力や構図を決める能力は、両者も改善されていくと考えられます。前者については、ここ最近のDeep-Learningの発展を見ていれば明らかです。後者については、Googleの画像評価技術NIMAという実例が存在します。さらに、NIMAを応用すれば、人だけでなく、風景等についても自動撮影ができるようになると考えられます。

 このような機器の登場を受けて、写真の未来はどう変わっていくのでしょうか。短期的には、これらの機器を買って自動撮影を行おうとする人はそれほど多くないでしょう。いずれの機器であれ、追加でお金を払って機器を買ったうえで、わざわざ撮影するために機器を準備しようとする人は、多くないと思われますから。

 しかしながら、例えばGoogle Clipsと同様の機能が、スマートフォンのアプリとして開発されたら─普段持っているスマホを立てかけて、手軽に自動で撮影できるとなれば─多くの人が利用するようになると僕は考えます。また、スマホで動画を取るように動かすと、自動的に良い感じの1コマを写真を切り出してくれるアプリがでたら、かなり売れそうですね。

 なお、初めて本記事を執筆してから数ヶ月後、実際にそのような機能を持ったスマートフォンSharpから発売されました。*4本当にテクノロジーの進歩は早いですね。

 しかし、かっこよく/かわいく写真に写りたいという欲求がある以上、ポーズをとった上で、従来のようにシャッターを押して写真を撮るという行為はなくならないように思えます。ということで、両者が並存する未来が、近い将来登場するのではないのかと、勝手に想像しています。

 次に、人以外の写真を撮るということについて考えてみると、特定のものにカメラを向けるだけで上手に写真を撮るアプリが開発されれば、それを利用する人は少なくないのではないかと僕は思います。誰だって、上手に写真を撮りたいものですしね。

 しかしながら、趣味あるいは職業として写真を撮っている方は、こういう自動撮影はあまり積極的に使わないのではないでしょうか。理由は以下の3つです。

①自動撮影は(おそらく)おもしろくないため
 プロであれアマチュアであれ、写真を続けている理由の1つは、根本的に写真を「撮る」ことが好きだということがあるように思います。そういうような人々が、単にカメラを設置するだけで満足するとはとても思えません。

②自動撮影では個性を出せないため
 趣味で写真を撮る場合、自分だけしか取れない写真を撮りたいというのが一つの欲求となるところ、機械で自動撮影しても、同欲求は満たされません。また、プロとしても、個性のない写真では、写真家としての個性を発揮するのは難しそうです。そもそも、人工知能で美しい写真を決めるにしても、人間を基準とした教師データが必要となるはずなので、新しい表現を作ることは難しそうですね。

 ただ、カメラ台数や配置方法等では、今までになかった表現が可能になるかもしれません。

③機器への信頼性に問題があるため
 自動で写真を撮ってもらえるのは確かに楽です。しかし、人工知能を用いて撮影する以上は、その仕組みがブラックボックス化するおそれが多分にあります。そのような作動原理がわからず100パーセント信頼できないものに、貴重なシャッターチャンスを任せるとも思えません。

 以上のように考えてみると、機械の自動撮影によって結構写真を撮ると言う行為の一部が、自動撮影に置き換わっていくように思います。それが、自動的にシャッターを押すことなのか、動画の中から自動的に良い1コマを切り出すことなのかはわかりませんが。

 ただ、写真を趣味/仕事とするような人が、自動撮影を多用することは、それほどなさそうな気がします。

関連記事: spaceplace.hatenablog.jp

 

AIによる人格の「再生」は現代の降霊術と言えないか?

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 心に残っている、一本のテレビ番組がある。

 2015年に放送されたNHKのNEXT WORLD。その中でも、僕の興味を引いたのは、第4回のエピソードだった。

 夫を亡くしたある女性は、悲嘆にくれていた─そんな彼女を「前向き」にさせたのは、人工知能だった。夫の残した手紙や写真といった様々な情報から、彼女は夫の人格を「再生」させようと試みていたのだ。最終的に「再現」された人格と彼女が交流できることを目指しているのだろう。NHKの取材班に対し、夫を「再生」しようとする様を説明した彼女の顔は、すごく輝いていた。

 同様の研究はGoogleも行っていて、「ロボットに特定の性格などを植え付けられるシステム」について、Googleが特許を取得したことが話題になった。*1この技術により、故人を「再生」できるようになるのだという。

 このようなデジタルクローンの技術的な内容に興味があれば、以下の書籍又はリンクを見てほしい。

NEXT WORLD 未来を生きるためのハンドブック

NEXT WORLD 未来を生きるためのハンドブック


永遠に生きる「デジタルクローン」は実現するか|WIRED.jp

 ただ、本稿で僕が語りたいのは、そもそも、絶えず変化を続ける人格を再現するのは不可能ではないか、ということだ。

 そもそも、常に人格が変化するというのは理屈として非常に簡単である。ハードウェアである脳の構造は、神経細胞の増減、神経回路の変化によって日々変わっている。ならば、人格自体もまた変化する。あるいは、人間は日々経験等によって人格を変えていく、と言っても良い。

 そもそも、個人を「再生」するのに、十分な情報が集められるかという問題はある。そして、仮に特定個人の全情報が集められたとしても、それは特定時点での個人を「再生」するにすぎない。では、どの時点での人格を持って、「その人」を定義すれば良いのか。

 例えば、10歳の時の「夫」こそ「夫」なのか。それとも30歳の「夫」こそ「夫」なのか。それとも死ぬ直前の「夫」が「夫」なのか。また、認知症などの病によって人格が変わっていった夫が居たとして、いつから「夫」は「夫」でなくなるのか。

 結局のところ、それを決めるのは再生する側の人間である。そして、人格を再生するあたって、再生側が情報を恣意に選択するという要素はなくならない。

 情報を取捨選択して人格を再現することを人格の再生と言って良いのか。恣意的に、ある種の「人格」を作り上げているにすぎないのではないか。

 そこまで考えた時に、AIによる人格の「再生」は、現代の降霊術と言っても良いのではないかと思った。恣意的に人格を「再現」することで死者の霊を「召喚」し、語らせることで生者を慰める。再現度が異なるという違いはあるとは言え、降霊術と人格の「再生」にどこまで違いがあるというのか。


 僕の情報を読み込んで「再生」された「僕」は、その問いにどう答えるのだろうか。 

Googleの画像評価技術「NIMA」─あるいは写真の美の基準について

  • GoogleのNIMAについて
    • 写真の評価について
    • 写真の改善について
    • まとめ
  • 感想

GoogleのNIMAについて

写真の評価について

 この間、ネットサーフィンをしていたところ、興味深い記事を見つけたので紹介します。Googleが、写真の質について判断できるAIを開発したという記事です。

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