作品情報
評価
☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)
※以下は作品のネタバレを含むので、注意してください。
ネタバレ感想
「私小説」が「なんとなく文字列を処理しながらだらだらと愚痴を連ねていく仕事」であり、本作が「私小説」である以上(本書14頁)、本作は色々なものがなんとなく詰め込まれている作品のように感じました。
そうであるがゆえに、本作はいろんな読み方が可能な小説で、本文の椋人の発言は、このことを示唆しているように思いました。
視点を回して、好きなところで止めればいい。何のための、余分な回転軸だと思うのかね。重なり合ったお話を、それぞれ好きな角度で重ねて眺めればそれでいいんだ(366頁)
本作では、「わたし」の話やら星川の話やら言語を操るオラウータンの話やらプログラムの話やら何やらが、まとめて詰め込まれています。何を主たる回転軸を捉えるかはおいておいても、余分な回転軸がいくつもあるのは間違いありません。それをどう重ね合わせるのかは、読者の思い通り、という訳です。
そして、このお話をいかに組み合わせるかによって、お話自体の面白さが変わってきます。初読したとき、この本の面白さが分からず、円城塔さんの作品では面白くない方に入るな、と思っていました。ですが、下記の要約を書いた現在、すごく面白い本だなと思っています。
なお、本作の話はI~XIIまでの回ごと、及び段落後の一行の空白で分けられています。それらの前後で、書き手が変わる、視点が変わる、作中から作中話へと移り変わる、といったことが起きます。そして、一行の空白ごとに、これらのうちどれが起きたかが明白でないことが、話が重なり合う原因となっています。
本書の内容の要約
さて、本書にどのような回転軸があるか確認するために、一度本作の内容整理してみたいと思います。
I
・小説の言語が定められる
・登場人物に名前が付けられるII
・登場人物に名前が付けられるIII
・和歌集を題材にした文章の評価プログラムの話
・そのためのスクレイビングや形態素解析の話IV
・小説の舞台河南と歴史が定まる
・舞台の河南が川南へとバージョンアップされる
このため、河南の登場人物と川南の登場人物が分裂します(e.g.英多)
・英多が過去のバージョンを掘ろうとするIV
・データとして書かれる小説とそれをもとにした紙の書籍と電子書籍の話
・不断に更新し続けられる小説のバージョンの話V
・小説の舞台である川南での作家と編集者の分業の話
・作家機械と作家機械へのインプットの話
・ハッシュ関数を用いた動物の名付けの話VI
・河南の英多とペトロの会話
・プログラミング言語の話
・言葉をベクトル化しての文章解析の話
・表記の揺らぎと中間言語の話
・榎室による系譜生成システムの話VII
・デジタルデータと、紙のデータの「揺らぎ」の話
・河南の英多が河南バージョンを単行本化の際に生き残らせようとする
・英多とペトロが観光する話
・星川が「赤ちゃんプログラム」という書籍を発見する話
・カメラと文章表現の話VIII ・学界と学界の話
・メタフィクションと呼ばれてしまうという愚痴
・オラウータンのモルグと言語の話
・札幌での講演「Uncreative Writingをめぐって」
なお、この講演は現実に行われたものです*1
・意味ありげのものをばらまけば伏線になるという話
この部分は、本作自体にそのような意味ありげなものがばらまかれていることを示唆しています
・Githubに置かれた本作と割り込みの話
実際に本作はGithubに置かれていました。公開は停止されてますが、変更履歴からどのようなものが公開されていたかの片鱗がつかめます
Commits · EnJoeToh/Prologue · GitHubIX
・城原水城と「赤ちゃんプログラム」の話
・本と部数の話
・城原水城が本作をリファクタリングする話
・城原水城の同一性の話
・本作の作成環境とGithubに置かれた本作の話
・Boombox Manと本作の話への割り込みの話
・英多と黄泉比良坂の話
・叙述支援システム・イザナミの不調と椋人の割り込みX
・設問と答
・読み手の言い分に耳を傾ける登場人物の話
・「わたし」が文章を書いている喫茶店とその周りの話
・第一回から第八回までの「わたし」の話XI
・生きたデータと死んだデータとわたし
・小説である3D CADデータである巨大な都市
・星川と「川南駅前地下歩行空間」
・椋人と佐代と河南と川南の行き来の話
・英多とペトロと冥界、河南の復活にむけてXII ・河南と川南の人物が合流し冥界から地上へ
・星川と文章を作り始める猩猩
・管理者モードに入る星川
ここで、雀部の家=作者が途絶えたことが明かされます(360頁)
・蜂田とバーニングマンの話
・上記のお話を書いた椋人の話
・走り続ける星川の話
・というお話だったと語るモルグの話
・というモルグの話をモルグの死生観ととらえる笛吹の話
・目覚めた羽束と息長が椋人の話は今までの話をアップデートする話だったと言う話
・わたしと別個の存在である円城塔の話
この時点で、書き手=円城塔さんと書かれる側の「わたし」が逆転したことは明らかです。円城塔さんは「わたし」によって書かれる存在にすぎません。
ここまで書き出してみたところで、なぜここまでの要約が機械学習によってできないのかとわたしは思いました。
それはさておき、こうやって書いてみると、かなり入り組んだ作品ですね。今作。
私のお話の重ね方
本書は、まさに作品中に出てくる「赤ちゃんプログラム」のような作品だと感じました。赤ん坊(=「わたし」)の発達を横目で見ながらプログラミングを学んでいく態(204頁)の物語ということです。少なくとも序盤は。
プログラミングの話は、読んだ通りだと思うので、「わたし」の成長について見ていきます。
本書において、途中からいなくなる雀部=円城塔さんは、以下のような望みを持っていました。
「自分たちで選択を、登場人物なりの自由意思を持てということですかね」と星川。
「手短かに言うとそうなる」と雀部。(52-52頁)
つまり、作者が登場人物を書くのではなく、書かれる存在が自由意思をもって行動する=自分自身を記述することを円城塔さんは望んでいるのだと感じました。
当初は、円城塔さんが物語を書いていました。象徴的なのは、河南を川南と書き換えるシーンです(IV)。ここで、河南の登場人物は消滅し川南の人々が代わりの登場人物となります。本来ならば。
しかし、結局河南の登場人物は消滅せず、河南の英多はむしろ河南自体を単行本化されるバージョンにしようと画策します。(VII)そして、叙述支援システム・イザナミを不調にさせることで、協力者の椋人は物語に割り込みます(IX末尾)。
と一息に読み上げ、
と椋人は一旦入力を終え、
と城原が修正し、
椋人は、それを確認して頷いて見せ、腕を持ち上げ─
この文章が入った時点で、どこまでが円城塔さんが書いた文章で、どこまでが椋人が読み上げた文章なのか、区別がつかなくなります。この部分より前の全てを椋人が読み上げたともとらえられますし、これより前の一部だけを読み上げたとも考えられます。
また、Xの末尾では、同様にどこまでを椋人が書いたのかが分からなくなります。僕としては、この時点で作者が円城塔さんから「わたし」へと切り替わったと考えます。
ただ、ここでまたどんでん返しが起きます。XIIで、モルグが「と、言うお話だったのだ」(370頁)と説明するシーンです。これより前が全てモルグの作り出したお話だともとらえられます。
ですが、羽束と息長の話が入ることで、この解釈は否定されます。
そして、最後で「わたし」が登場し、最終回を書いていると主張することで、これまでの物語を書いてきた主体が円城塔さんではなく「わたし」となります。誕生した「わたし」は、「わたし」によって記述されるSelf-Reference Engineであり、「文字の海から人間を発見し、見いだすことで、見つけたならば保護する」作業に移る規模に達することになりました(373頁)。
ここに、「わたし」が小説を書く準備が整い、来たる小説のためのプロローグは、ここに終わるのです。
とお話が綺麗に着地するわけではありません。<完>と表示された後に、まだ一文が残っています。「──この回から新たに取得された漢字は(略)」普通、<完>と書いた後に話を続けないことからすれば、おそらくこの文を書いたのは「わたし」ではありません。
この文を書いているのが、円城塔さんであれば、結局本作は最初から最後まで円城塔さんが書いた物語ということになります。アルゴリズムによって自動的に書かれているのであれば、本作を書いたのは「わたし」であるとも考えられます。もしかすると、まったく別の第三者が、ここまでのお話全てを書いたのかもしれません。
あなたは、どの角度で眺めるのがお好みですか?
「エピローグ」感想: spaceplace.hatenablog.jp
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