作品情報
- 作者: 小川一水,富安健一郎
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2013/01/25
- メディア: 文庫
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天冥の標第6巻は、part1からpart3まであります。
※第6巻Part2の感想はこちら。
spaceplace.hatenablog.jp
評価
☆☆☆☆(最高評価は☆5つ)
※以下は本作のネタバレを含むので、注意してください。
ネタバレ感想
僕が一番好きなSFシリーズで、すでに日本のSFを代表する作品群であるとの評価もある天冥の標。今回は、その第6巻である「宿怨」Part 3の感想を書いていきます。
<<救世群>>と4つの絶望
前作では、破竹の勢いで非染者達を追い詰めていった<<救世群>>。しかし、ここに来て4つの絶望が顕現します。
1つ目は、ヤヒロ一族以外の<<救世群>>が子供を産めなくなったこと。
ただでさえ、甲殻化により異形な存在になってしまい、そこからもとに戻れないというのに、子供さえ残さないという苦境。少子高齢化なんていう次元じゃありません。このままいけば、<<救世群>>の次世代がほとんどいなくなり、<<救世群>>が滅びるのは時間の問題でしょう。<<救世群>>の存続うんぬんは置いておいても、自ら子供が残せず社会から子供が消え去ってしまうということは、あり得ないほどの絶望だろうなと思います。
2つ目は、甲殻体となった<<救世群>>咀嚼者となってしまうこと。
咀嚼者は、その描写からだけでも恐ろしさが伝わってくるようです。
立ち上がったオガシの前進がひと回りも膨れ上がり、茶褐色だった攻殻が鮮やかな朱色に燃え上がった。瞳は一時的に消滅し、眼窩全体が熾火のように灯った。声、とは言い難い怒りの咆哮を漏らし始め、腕の側面からは、見たことのない、二枚目の前腕鉤が長々とせり出していた。(16頁)
瞳すらない朱色の怪物。本書の言葉を借りて言えば、邪悪そのものの何か、人類の敵そのもの(302頁)。いままで、あれだけ冷静で人を引き付ける魅力にあふれたオガシは、このような咀嚼者になってしまいます。
あの抑制のきいた存在であるオガシですら、咀嚼者になって居留地で起きた酸欠事故の慰霊碑を破壊したり(18-19頁)、シグムントを殺したりと暴虐を尽くしたことを考えると、他の<<救世群>>の人員が咀嚼者となれば、一層混乱が拡大することは間違いないでしょう。
3つ目は、多くの戦いに敗北したこと。モウサを含め、多くの<<救世群>>が戦いによって死亡し、社会は動揺しています。
そして、最後にして最大の絶望は、<<救世群>>の敗北がミヒルによって引き起こされたことです。(319-320頁)
宿怨 part 1-2を通じて、ミヒルはチカヤへの思い入れが強すぎる面がありましたが、<<救世群>>の人々を思いやる優しい少女でした。しかし、ここに来て、人類に冥王斑を罹患させるという大義の下、それに反対する両親や仲間すら殺すことを厭わなくなります。
ミヒルは断言します。
「<<救世群>>とそれ以外は同じ人間じゃないわ。(中略)人はあの苦痛を受けるべきなのよ。わからない?すべての人は<<救世群>>と対等な非染者なのではない。すべての人が、いずれは病に感染するべき、未染者なのよ!」(323頁)
ここまでくると、完全にミヒルは妄執にとらわれていると感じました。誰よりも千茅と同一化しようとし、千茅が目指した先に行こうとする気持ちが高まりすぎて、<<救世群>>の人々を大事にするという、根本すら欠けてしまっています。
ミヒルがすでに咀嚼者となっていたなら、まだ救いようがあります。ミヒル自身が悪いというよりも、硬殻化による影響のせいだと割り切ることができたでしょう。しかし、ミヒルは自らの意思で、仲間たちを殺し血の海を築いたのです。
<<救世群>>が、このような穢れた人物によって率いられており、ほとんどの人はそれに気づいていないこと。これが、一番の絶望でしょう。
ミヒルと千茅
ミヒルが千茅に取り憑かれた理由
実際この娘は、千茅に取り憑かれているのだ。誰よりも尊いものでありたいと熱烈に願っている。(82頁)
では、なぜミヒロは千茅に固執するようになったのでしょうか。その理由は、ミヒルが冥王班に罹ったこと(84頁)ではないかと、本作を読んでいて思いました。
人は何か苦痛に陥ったときに、しばしばその苦痛を正当化しようとします。例えば、「これは神様がくれた試練なのだ」とか、「これは皆のための必要な犠牲なのだ」とか。そして、苦痛の程度が大きければ大きいほど、何とか理由をつけたいと思う気持ちが働きがちです。
冥王斑がミヒルに与えた苦痛は、尋常ではないものだったのでしょう。少なくとも、ミヒルをしてこう言わしめるくらいには。
地獄だった。生きているのに腐りかけた七日間(85頁)
三歳のミヒルが受けた痛みは、途方もないものだったでしょう。そして、幼いミヒルの心はひどく傷ついたのでしょう。この最悪な思い出を少しでも良いものと捉えるために、千茅と同じ痛みを受けたおかげで自分は千茅のことが誰よりも分かるようになったのだと、ミヒルは考えるようになったのではないでしょうか。
千茅の教えを曲解するミヒル
そのように考えれば考えるほど、自分が千茅のことが分からないわけはない、自分と千茅は同じ気持ちなのだと、ミヒルは思い込むようになっていったのではないのでしょうか。そこから、千茅の思いを曲解し、自らの歪んだ考え方と合わせるところまではあと一歩です。
1つは、ミヒルと千茅が似ていない点が29もあったのにも関わらず、解釈によって自分と千茅は変わらないのだと思い込んだことです(80-81頁)。
もう1つは、以下のミヒルの発言です。
チカヤは非染者は悪ではないと言った。冥王斑を知らない者を許せと言った。つまりチカヤは非染者を悪だと感じていたし、何の苦痛も知らない者たちを憎んでいたのよ。痛いほどわかる、その気持ち(87頁)
こう考えて、非染者を悪だとして攻撃しようとしている。明らかに、これは「冥王斑を知らない者を許せ」という千茅の教えと背いています。
しかし、もはやミヒルは、このことが気にならなくなってしまっているのです。
そして、もはやこのような曲解をもたらす千茅への妄念がなければ、ミヒルの心が持たなくなってしまっているのでしょう。
ラゴスは状況を冷静に分析しています。
できればその憑依を解消してやりたいとラゴスは思う。だが不可能だ。ミヒルはすでに、越えてはいけない現実の線を何本も越えてしまっている。ここで正気に戻せば、自分が歩いてきた道の暗さと赤さに気づくだろう。(82頁)
己の妄執のもと、父や母、<<救世群>>の人々を犠牲にしたミヒル。彼女が引き返す道は、もはや存在しません。
天冥の標
このようなミヒルに率いられた<<救世群>>と非染者たち。積もり積もった恨みと暴力の応酬はとどまるところを知りません。太陽系では、数々の戦いが繰り広げられました。
こんな争いは終わることがあるのでしょうか。この物語に、幸せな終わりなど、訪れ得るのでしょうか。
この点について、一筋の希望を投げかけてくれたのが、第五章の天冥の標です。本シリーズのタイトルにもなっている、極めて重要な一章ですね。
「天冥の標」の意味
まず、本章のタイトルの意味について考えてみます。
本章の主な登場人物が非染者と<<救世群>>であったことを考えると、天冥とは、非染者たち(=天)と<<救世群>>たち(=冥)という真逆の存在を示しているのではないかと感じました。特に、<<救世群>>は咀嚼者という「邪悪そのものの何か」になり得るのですから、「冥」という単語がしっくり当てはまる気がします。また、標とは道を案内をするものを意味します。
これらから考えると、天冥の標とは、非染者たちと<<救世群>>たちを案内するもの、といった意味になるのではないでしょうか。
そして、以下のブレイドたちの行動こそが、非染者たちと<<救世群>>たちが目指すべきもの、すなわち天冥の標そのものであるということではないかと感じました。
本章のあらすじ
まず、軽く本章のあらすじをまとめてみます。
第5巻の舞台にもなったパラスにある、小惑星地下都市ヒエロン。そこに現れたのは、<<救世群>>のノルベール・シュタンドーレとエフェーミア。<<救世群>>とヒエロン市民との出会いは、惨劇から始まります。あっさりと、シュタンドーレは警官を惨殺して見せたのです。
シュタンドーレは言います。
「これは、帰そう。われわれが欲するのは、これまでに奪われたものだけなのだ」(中略)
「それも、ほんの二十万人分だよ」(103頁)
友好的な出会いなど期待できるわけもありません。
そんないがみ合う両者を引き合わせようとしたのが、ブレイドたちです。ブレイドたちは、以下のような方針を持って、なんとか仲を取り持とうとします。
「[<<救世群>>]にとって病気は、自己の存在と骨絡みの、切り離せないものになっている。それどころか、なくてはならないものにすら、なっているんだろう。真実は役に立たない。おれたちが処理すべきなのは現実だ。不倶戴天のもの同士を、それそのままで何とか生かしてやるんだ」(121頁)
真の目的だとして心の源に据えたのは、どちらも人間であるという信念だった。(148頁)
話合いで両者のいがみ合いを解決できる段階など、とっくに過ぎています。
理想を追い求めるのではなく、現実として立ち向かっていくこと。憎しみのままに行動するのではなく、根気よく「苦痛と皮肉のやりとり」を繰り返すこと。(146-7頁) 許す許さないの話に執着しないこと。同じ人間だと考えること。これらによって、ブレイドたちとシュタンドーレは、戦略的互恵関係ともいうべき間柄になることができました。
天冥の標がもたらした希望
因縁が絡み合った非染者と<<救世群>>には、最初から仲の良い関係など望むべくもありません。ですが、本作のように厳しい現実の中でも、憎しみにとらわれずに、地道に交流を続けていくことで、一筋の光が見えてきます。
実際に、本作において、ブレイドたちとシュタンドーレは戦略的な関係を築くことができました。そして、その関係は次第に信頼を生み、相手を非染者の1人、<<救世群>>の1人として考えるのではなく、相手を同じ人間の1人として見ることができるようになったのです。
単なる和解とは違う解決。それこそが、顕現した天冥の標が示したものであり、希望なのではないかと、本作を読んで感じました。
次巻の感想:
小川一水「天冥の標VII 新世界ハーブC」─破壊・再生・歪み - 本やら映画やらなんやらの感想置き場
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