生成AIが巷を賑わす何年か前、ある後輩の心に残った一言がある。
「人間は関数ですから。」
その当時は、その発言の意味がよく分からなかった。人間を要約してみれば、情報を入力し、情報を出力する存在である。だからこそ、人間を関数と捉えているのだと気づいたのは、それよりも後のことだった。
この言葉は、不思議と僕の心の中に残り続け、何べんも何べんもこの言葉の意味を考え続けた。確かに、人間の脳はニューロンからできており、ニューロンは情報の刺激を受けると他のニューロンに情報の刺激を伝える(場合があるし、そうでない場合もある。)。概ね、人間は情報を入力して情報を出力しているのだから、ある種の関数ともいえないかとも思った。もっとも、人間は知能を持っており、考えることができる。そのため、単なる数式で表される関数とは違うよな、と当時は思ったものだ。
しかし、ディープラーニングが登場して以降、そのような思いが打ち砕かれた。仕事で毎日のように生成AIを使いこなすうちに、こいつらには本物の知能とやらが存在しているのではないかと思うようになったのだ。例えば、感情のこもったメールをドラフトさせてみたり。例えば、D・カーネギーの著作をひたすら褒めさせてみたり。そこで紡ぎだされる文章は、人のそれとは区別できない。生成AIに含まれる巨大な数式の中には、ある種の知能が含まれていると思わざるを得なくなっているのだ。
最近、僕がブログを書く際に、脳裏に浮かぶイメージがある。僕という関数に情報がインプットされ、あなたが現在見ているこの文章が出力されるイメージ。あるいは、生成AIのチャット欄に何かが入力され、このブログが出力されるイメージ。そこにどれだけの違いがあろうかと思う。アウトプットが変わらないのであれば、僕がここに何かを書く意味がどれほどあるのだろうか。生成AIによって生み出される無限のウェブページの中で溺れてしまっているこのブログを眺めながら、僕はまだ答えを見つけられずにいる。